只のケツ好き、ゲイと言うのじゃないでしょうね。
先の人も書いているけど、やられノンケ。そんな言葉があるのは知らなったけど、最近こっちの世界ではケツやってケツやっての奴で溢れています。
同性愛と言っても、そういった行為は単に反対の性を演じているだけです。
男の場合は女を、女の場合は反対に男を演じたがるのです。
結局、極端に言えば男の場合では、女が好きで女が好きで、それが高じて自分自身が理想の女になってしまう。女装者などは、自分の好みの女を演じる自己陶酔というか、一種の自慰行為の典型的な者が殆どです。
なので、自分が演じる想像上のセックスを相手に求めますから、あーしてこーして
の欲求ばかりになって、しかも自慰行為ですからそれを叶えてくれるならば相手は誰でもいいのです
そういうのも含めて男のゲイは9割がウケと言ってもいいと思います。女の場合はその意割合は逆でタチが殆どいうことになるのでしょう。
ただ男にとってセックスは只の遊び。恋愛感情よりもそれが先になる。それでもセックスから情が芽生えていくこともあります。
お尻の快ですが、男の場合、前立腺ばかりではなく精嚢、尿道球腺や射精感なども直腸側に集中しています。
なのでそこを直接刺激されることで、強い性的な快があるんです。
もちろん直ぐにという訳でもなく、慣れと言うか癖と言うか、徐々に開発されてていくものです。
それにはそこに導いて開発してくれる相手が居なければなりません。
書くと長くなりますので書きませんが、自慰行為だけではそこに到達できないからです。
それを経験し、想像の世界から引きずり出されて、はじめて本当の深い快を知るのです。
重要なことは、その快の溺れると、もう通常の男には戻れないことです。
その快に落とせる者、これはかなり限定的です。経験上、女には殆ど居ない、というか出会ったことはありません。
その意味でも相手を慰み者にする男のセックス遊びの一つでもあるのです。
人類史上の役割なのか、肉体的構造上、男は女よりも遥かに深い快に落ち難い。
またそれは人間性と言うか性格、気質によっても、落ち難い者も多いのです。
自らの考えを先行させ、他人の言うことに素直に慣れない、ある程度従順になれない者は、自ら拒んでいるようなものです。これも男が男であることの特異な気質でもあります。それが強いか否かです。
自分の考えを変えない譲らない頑固者は、男の独占状態、特に年齢が進むほど顕著になります。
こっちの世界では、勝手な想像の世界から頑として出ない者が、その典型と言うべきでしょうか。
そういった人間には、セックスに限らず、深い技を教えるて貰うことができません。相手にする方も放っておくしかないのです。
長々書きましたが、あなたは勝手な想像を強くは持っておらず、単にお尻の刺激への興味だけで、ゲイセックスに入ってしまった。しかも従順に物事を素直に受け止める人柄だった。さらにそこで出会った相手が良かった、ということでしょう。
私も全く同じ経験をしています。
ただ私は、その際の年齢があなたよりも遥かに若く、しかも相手が極限的なテクニシャンだったのです。それが良かったのか悪かったのか。
哀れなのはそれからです。
この世界も単純に射精的欲求を果たすだけという稚拙な者が殆どです。
そんなテクニシャンは滅多には居ません。居たとしても、それはそれで結局はセックス遊びです。
そこに落とされる者は、ある意味で気質も女的ですし、受け身はセックスから情が生まれていくものです。
実際、私もお相手が恋愛感情的に好きになります。そのようにして徐々にはあるのですが、本当のゲイの世界に入ってしまうのです。
そうなると自分が女ですから当然女を受け入れません。
そうなると、巷を彷徨うとになりますが、それでも得られない者の存在を知ることになります・
あっという間に歳月は過ぎて歳を取り、ますますセックス遊びの相手にされなくなっていくのです。
それでも身体の深い所で起きている疼きは収まらず、さらには既に自慰行為ではそれを収めることができない体になっています。
常に性的な欲求不満の生活を強いられ、それにも増して情を示す相手が探せないという、人としての哀れさです。
幸いなことに、性的欲求も男の射精的な瞬時の過激なものではないため、それを抑えることもそう難しくはありません。
それでも一度火をつけられると止まらないのは必然でしょうか。そういう哀れさと永遠に共存していかなければならないのです。
※元投稿はこちら >>