七十年間胸の中に秘めていた想いをこの体が朽ちて土に還る前に書き留めておきたいと思う様になった。人が生きて行くのに必要な事の一つをより深く理解するために何か役立つかも知れない。この事は僕の人生を限りなく寂しくしかし限りなく豊かなものにしてくれたのだなと思う今日この頃である。
僕は性的には早熟であったと思う。小学校の低学年の頃から、特定の人に対して恋愛感情を抱く様になった。しかしその相手は常に成人男性であった。もう少し具体的に言えば自分にとって父親に相当するくらいの年齢の男性である。学校生活の中でそのような人は教師の中に見いだされた。小学校高学年になって友達と恋愛感情や時には性的な欲求に関する話をする様になって来ると、他の男の子達は皆女性に興味を持つ事が分って来た。どういう訳か僕にとって女性は全く恋愛感情の対象とはならなかった。なんとも超え難い違和感と共に自分の性向が他人に知られる事に対して警戒感を持つ様になり、恋愛に関する話題を避ける様になった。とは言え年頃の青少年達の間でそのような話題を避ける事はほぼ不可能なので、そう言う話題の時には適当に話を合わせて深入りしない様に気をつけていた。色々な書物を読むと大概同性に対する恋愛は不健全なものとして扱われ「少年期には同性愛の傾向を持つ事もあるが、成長に従って異性へ興味の対象が移って行く」という様な事がまことしやかに書かれていたので、そんなものかと理解していた。しかし高校、大学と進み成人を過ぎてもこの性向に変化の兆しは全く現われなかった。対象との社会的関係から私の恋愛は常に完全な片想いで、相手にも周囲にも全く気付かれない様にあくまでも『秘想』として胸を焦がすのみであった。しかしそれは時に堪え難い程寂しく、また苦しい生活を強いるものであった。
しかしながら内にわき上がって来る衝動のエネルギーは抑え難いものであり、ちょっとでもチャンスがありそうな場面ではそのまま身を任せて流れて行くという誘惑は抗い難いものだった。そして、打ち明けるのも恥ずかしい話だが、行きずりの人との交渉も何度か経験した。初めてラッシュアワーの電車の中で好ましい感じの中年男性にいたずらをされた時には完全に理性が吹き飛んでしまった。しかしそれ以上に事を進める勇気は持ち合わせず結局その場を去り、その後は独り寝の寝床でそのことを思い返し妄想を拡げて楽しむ様な生活が続いた。そのような事を数回経験した後、ついに誘いに応じてついて行き公衆の秘所で交渉を持った。それからもそう言う事を何度か経験したが、淋しいことに事が終わると互いにそれ以上の深入りを避けるようにそそくさと別れるのが常であり幸福感とは程遠い後悔が残るばかりだった。相手がどんな人でどのような生活の背景を持つのか知りたかったが一切不明なまま終るのである。一方、実生活の中では人柄・生活態度など非常に好ましく思える恋人(?)と何人か行き会い、恋い焦がれたが常に完全な片想い以上のものはあり得なかった。
そんな中で一人だけ、僕の恋心を感じてくれたと思われる人が居た。それは大学時代の老教授だった。一生を振り返ってもこの先生に対する想いは抜きん出たものだった。下宿を先生の家の近くに変え行き帰りのバスで一緒になる機会を増やす等ストーカーまがいの事もした。バスが一緒の時は先生のご専門の分野の話が主な話題だった。僕はその分野にも強い興味を持っていたので余り不自然にならずに会話を維持する事が出来、宝物の様な時間だった。そんなことが一年程続いたころ、バスを降りて分かれ道までの短い間に突然先生がぽつりと「戦地で僕の当番兵はオカマさんだったなあ。」と言ったのには驚かされた。どういう意図でそんな事を言ったのかは判らなかったが、僕の先生に対する気持ちの中にそう言う要素がある事を感知していた事は確かに思える。しかし先生は僕を拒絶する事無く、かといってそれ以上近づける事も無かった。
結婚等という事は勿論考えなかったのに、家庭を持ち子供を持つ事は心の何処かで望んでいた。しかし四六時中女性と同じ家に暮らす事は考えただけでもうんざりする事でそんな事は自分には無関係であると思っていた。そんなある日偶然のいたずらか、なんと可愛のだろうと思える女性と巡り会ったのだ。小柄で少々我が儘だが物怖じせず子供の様に正直な感情表現を持った女性だった。一目で直観的に「この人となら一緒に暮らすのが楽しいだろう」と思えた。成熟に従い同性愛的傾向は異性愛に移行するというし、自分が結婚するとしたらこの人以外はあり得ない。このチャンスを逃したら二度と無いだろうと確信しプロポーズして結婚にこぎ着けた。結婚生活は僕に取っては楽しいものだった。家に帰っても話し相手が居り二人で協力しながら生活の基盤を築き上げて行く過程は充実感に溢れた物だった。しかし結局それは僕の独りよがりであった。妻の事は心から可愛いと思ったがそれは恋人が持つ感情とは明らかに異なるものだった。つまり可愛いと思う感情が性的な欲求とは完全に乖離したものだったのだ。普通の男性にこの乖離を理解してもらうのは困難な事だろうと思うが、その『可愛さ』とは兄の妹に対する或は父の娘に対する感情と同類の物だと言えば少しは分ってもらえるのではないだろうか。つまり家族愛である。この事は自分に娘が生まれて疑う余地が無くなった。そんな訳で夜の夫婦生活は義務感だけの極めておろそかで貧しいものとなるのは当然であった。妻にとっては極めて不満なものであった事は間違いない。体を合わせなければならない時には片想いの男性を想い浮かべて義務をこなしていたのだ。こんな不具の夫婦生活により妻の不満は日に日に募っていたに違いない。妻は僕の心の問題を鋭敏に感じ取り何度も不満をもらしたが、どうする事も出来なかった。彼女の事は深く愛していたので申し訳ない気持ちで一杯だったが、それ以上改善することが出来なかった。結局二番目の子供を失った事がきっかけで妻は娘を連れて私の元を去って行った。本当に可哀想な事をしてしまったものだ。自分が犯した罪の深さを嫌というほど実感した。
二度と同じ罪は犯すまいと決心し、再び一人暮らしの生活に戻った。再婚話は何件か持ちかけられたが全て冷淡に対応をしている内に途絶えてしまい、ほっとした。そして一生一人で暮らして行かねばならない淋しさに耐えて行けるだろうかと不安と無念の日々を送っていた。40代のある時このまま人生が過ぎて行く事に耐えられなくなって、その時好きだった人に胸の内を打ち明けた事があった。その結果は当然の事ながら無残なものだった。自分の気持ちの誠実な吐露は相手の拒絶ばかりでなく強い嫌悪感を引き出したのみだった。絶望の余りその時は真剣に死まで考えた。そんな深く淀んだ生活の中でも自分の仕事はやはり生き甲斐でありそれによって自分は生きて行けるだろうとの結論に達し、なんとか危機を乗り越える事が出来た。しかし前途に横たわる索漠とした生活を思うとやはり心が沈んでしまうのは止めようが無かった。
一人暮らしの生活が10年程続き40代後半になると「一度きりの人生をこのまま淋しく終えるのは絶対に嫌だ、なんとかしてやる」という気持ちが強くなって来た。そんな折り偶然に『豊満クラブ』という年配の男性が好きな年配の男性達の集まりがある事を知った。「これだ」と思い会長の茶屋壮一氏に入会希望の手紙を送った所、歓迎の返事が来た。恐る恐る集りに行ってみると、そこには普通の親父さん達が集まり、中には会長をはじめ一目で胸が高まってしまう様な素敵な『お父さん』も何人か居た。「この人達は皆男が好きなのだと思うと、わくわくしてもっと早く来れば良かった」と思ったものだ。ただ会の性格上そのお父さん達も初老以上の人が興味の対象であった上、素敵なお父さん達は皆既成のカップルになっており、僕の他に数人居た若いメンバーは『お味噌』の様な存在だった。それでもその集まりの中では社会生活の中で厳しく封印しているものを開放して自由に話が出来たため、精神衛生上非常に大きな効果があった。残念な事にメンバーの年齢が高いため、10年くらいの間に衰弱して参加出来なくなる人、亡くなる人などがぽつりぽつりと出て来た。僕が憧れた人達も夢が実現する前にそういうことになって行くのは何とも淋しかった。しかし最後に僕より10歳年上の鳶職をしていた人と親しくなった。この人も人気があり高嶺の花だったのだが、ある時発見された大腸癌が縁で親しくなった。入院費等を支払う事が無理なので「このまま死ぬんだ」と言い張っていたが、見過ごせずあちこち交渉して生活保護者として受け入れてくれる病院を探し出した。幸いに手術を受けて癌は消失した。彼には同居している相手が居たのでとにかく当面の援助で切り上げるつもりだったが、元気になるにつけ僕の所を訪ねて来る様になり、ある時ついに相手をしてもらった。夢の様に嬉しかったので、働いている間は僅かだけれども生活の援助をさせてもらう事にした。こうして一年に3,4回会う様になった。お互い離れた所に住んでいたのと僕に仕事があったのとでそれ以上は無理だった。たまにしか会えない事がこの付き合いを長持ちさせ、10年以上続いた。彼は同居している相手から離れて僕の所に来る事を望んだが、それはどう考えても無理だと説明していた。定年も近づいたある時、援助のためにやっていた定期振込の3年毎の更新を忘れていて振込が途絶えるという事が起きた。彼から電話が掛かって来るまで気付かなかったのはうかつだった。しかし彼の電話は強烈なもので「俺を捨てたな。」と怒り心頭に言うのだ。びっくりして振込更新を忘れた事を詫び、すぐに更新すると説明したが聞く耳を持たず「そっちがそうならこっちにも考えがある。おまえの仕事場や娘に電話をかけて全部ばらしてやる。」と言う始末でどうしようもなかった。一度の手違いでこんな恐喝の様な事を言われると「15年近くになる付き合いは結局僕の片想いだったのか」と思った上、これからもこんな事が起こるのはたまらないなという気持ちになりきっぱりと付き合いを止めることにした。今でも片想いの気持ちもあるが、もう修正不能だろう。やはり男同士の間柄を社会の中で維持して行くのは難しい事だと実感した。
その後60歳の時に胃癌で胃全摘手術を受けてから体力が激減して若い頃のような悩ましい衝動が少なくなり、恋人達との思い出の空想の世界だけでも精神の安定を保つことが困難でなくなったので今は静かに暮らしている。最近は性的マイノリティがある程度受け入れられる社会となり、開けっぴろげに自分の性向を出す人も増えて来たが、『わざとらしい』ものも少なくない。自分の生涯を省みるに、全体に淋しい生涯だったとは思うが、その中で味わった『悲しみ・絶望・渇望・孤独感』は『憧れ・巡り会う喜び・相手の自分に対する愛情を感じる喜び』と共に自分の心の中で熟成して何かを産み出した様な気がする。これがどう役立つのか分らないが、芸術的な活動や社会の中での人間関係の扱い方に結実して行く様な気がする。