ゲイ体験告白
1:ゲイで生きるというのは辛いもの
投稿者:
ゲイ爺
◆AoT8KYCnWo
2019/02/09 10:12:40(52ArH5w.)
いわゆる性同一性障害の方なんですね。
19/02/09 10:51
(jF4uKS4t)
それは違うと思います。
自分が男であることを否定したり、女になりたいなどと思ったことはありません。男であることで悩んだこともない。
性ばかりではなく、何事に関しても同一性障害を起こしたことはありません。
実は私は若い頃女にも結構モテました。ゲイセックスを知る前に、15歳で初体験し、その後も二人の女と付き合いました。ゲイセックスを知った後も二十代半ば位までは女とのセックスも多く経験しています。私は女を追いません。女は必要以上に追わないと、逆に追ってくるものです。
またセックスでは自分が女にされていますから、普通の男よりは女の性的感覚がが分かります。
自分がセックスで縛られる経験をすると、女をセックスで縛ることもそう難しくはないものです。ただ感情や精神的にも縛ってしまうので、セックスだけ遊ぶ、つまり単なるセックスフレンドでいい、という女を私は知りません。面倒なんです。
自分が女になると、セックスとしては女の方が良くなります。さらに不思議なものですが、セックス漬けにされると、その相手に好意や情が生まれるものですが、女のようにそれに縛られるのではありません。
私は相手が女であれ男であれ、感情的に相手を追うようなことをしません。
恋愛的な感情が希薄で、その意味では哀れな人間ということにもなるのでしょう。
女性化は、歳をとってから体が変化しただけです。その理由は分かりません。
ただ性としては中途半端で、現在は男をやれと言われてもかなり難しいと思います。
男も女と同じ様に性的な快に落ちますが、女より落ち難いことは確かです。
女でも全ての者がそういう経験しているのではありません。本人の気性と相手次第なんです。
本当に快に落ちるという経験をした女はあまり居ないと思います。そいう経験をしている女はすぐに分かるものです。
またウケのゲイでも、快に落とされるという経験をしている者は多くない、と言うより殆ど居ないと思います。
男は頭でセックスをします。特に歳が行くほどそこから離れられない、と感じています。
例えば、女装者の多くは、自身が想像妄想した女を演じて、それによって自身を満足させているのでしょう。自分の想像や妄想を相手に要求し、それを叶えてくれる相手ならばそれ以外はどうでもいい、それがその典型だと思います。
女は頭ではなく、体で、感覚で、セックスをするんです。
男でも条件さえ揃えば、女と同様に感覚でセックスをするようにもなれるのです。その条件とは、私が思うのは、まずその人の気質、性格、そしてやはり経験させてくれた相手が重要でしょう。
性を深く知ると、快は相手によって落とされるものなので、自慰行為はあまり意味を成しません。自慰行為では満足しないからで、私は今となっては殆ど自慰行為をしません。なので本文の最後に書いたように体の芯が疼きは解決しないままになるんです。
まとまりのない書き方ですみませんが、少しお分かりいただけたでしょうか。
19/02/09 16:23
(52ArH5w.)
お気持ちはわかる気がします
55歳のSタチです
ただこのモヤモヤ感を解消せず生きるのは
つらいかもしれませんね。
年齢から考えても、肉体的な訴求からの解決を求めず
精神面から自分を変える方が良いかもしれません
仏教思想などの本をお読みになり欲望のコントロール
そしてひとつひとつの出会いへの感謝。
愛とは見返りを求めることなく
相手に注ぎ続けるもので自ら欲しがるものではありません
僕はセフレとのセックスでも、
頭でも体でもなく心でやりますよ
心を込め愛情を注ぐつもりでやっています。
ただ体を男性寄りに戻したいお気持ちがあるなら
バイアグラ等の勃起薬をセックス時ではなく
薬として定期的に飲むことは効果的なはずです。
参考に なりませんよね 失礼しました。
19/02/10 12:33
(w.nQaSBO)
欲求は強いものではなく、普段の日常では忘れています。
なので何が何でもセックスを求めて積極的に、ということは思考でも実際の行動をとることもありません。
ではなくなったかと問われれば、そうではない、と書いたんです。
すれ違うような関係でも、一時情を結び相手の欲求を叶えてあげられる、という自身の存在の確認みたいなものかも知れません。
それでも、そんな気持ちとは裏腹に、意欲的に攻められると体は反応してしまう。それが性でしょうか。
愛(愛情)と書かれておりますが、愛とは何でしょう?愛と情は別なもののような気がします。一緒にすると余計曖昧になる気もします。
見返りを求めない、元々愛という感情は自身にある身勝手な感情かと思います。
それを向けられたからといって、相手もそういった感情を持たなければ、相手には何の関係もない。むしろ迷惑な場合も有り得る。
その場合、もちろん見返りなどはないので、それを求めること自体が間違いというか、単なる身勝手ということのなりませんか。
注ぎ続けるのは自己満足的な、これもまた単なる身勝手になるでしょう。
しかして、相手がそれに応じ、相手もまたそれを求めるのならば、それらは一変する。
仏教思想でも、愛を手放しに良いものとは言っていない。むしろ悪い感情に近いと思います。
キリスト教的な思想からでしょうか、愛だ愛だと叫ぶ者が居ますが、その人たちは愛に意味するものを本当に考えたことがあるのでしょうか?
英語圏(特にアメリカ)以外では、愛には幾つかの意味を持つ場合が多い様です。それは良い捉え方ばかりではありません。
わが国でも元々愛と訳した時点での誤解があるのかも知れません。
相手を求める微妙な関係、それは何かの信号を送り、送られることから始まるのでしょう。
それが人間のどの感覚を通じて信号を送るのか、だけなのではないでしょうか。
心といいますが、相手を求めるならば心を何らか方法で伝達しなければならないでしょう。
頭の想像妄想による性は、単なる自慰行為に繋がるだけであれば、それは他の者の存在という現実を超えている面があるきがします。
体の感覚は、そういった場合に効果的でかつ重要な信号手段で、体の快は精神的な快を誘発していくものだと、思っています。
男よりに体を戻す。
医師は男性ホルモン投与という治療法があるが、現状で心理面も含めて特に困ったこと、気にすることがない限り、その方法は勧めません、と言います。
特段気にする訳でもなく、生活に悪影響が出るほど困ることもないので、そのままにしています。
男性的な、男性ホルモンを誘発する運動でしょうか。その意味で筋トレーニングなどはしています。
性的な意味で男性に戻すなどということは考えたことがありません。
19/02/13 04:59
(U0AfVieb)
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