夕食後、自室にて机に向かい暇を潰すともなくノートPCでネットをしていたら、ドアをノックする音がした。
「・・・なに」
「・・・ねえ、ちょっといい? 」
いつもとは違う、弱々しい母の声がした。
「・・・いいけど」
普段は豪快に部屋に入って来るのだが、こちらを窺いながら入ってきた。
お互い相手の顔を見る訳でもなく、俯き加減で出方を待っているみたいだった。
沈黙を打ち破ったのは、母だった。
「あ、あのさ・・・」
「・・・」
「そ、その・・・」言い淀む母。
「沢木のこと?」
「う・・・、うん」
「なに?」
「その、こ、沢木君から・・・聞いて・・・さ」
「別に公平君でいいんじゃない」
「え?」
「いいよ、もう。聞きたくない」
母はいつもと違い、怒られているように下を向いていた。そんな姿を見ているのも嫌だった。
「付き合ってたんだろ。旦那と息子がいるのに」
「ち、ちがう。そ、その・・・」
一生懸命言い訳をしている母を、少し憐れにも思った。こんな弱っちい母なんて見たことがなかった。
「あ、あのさ、誤解しているならいけないと思って、さ・・・」
「誤解?」
「あ、あの、付き合っていないよ。あたしたち」
「・・・」
「そ、それに、もう沢木君良くなったからお世話に行かなくていいから、だから、明日からちゃんと元の生活に戻るから、さ」
「知っているよ。そんなに悪くなかったんだろ、あいつ」
信じたくはなかったが、沢木は母との肉体関係を認めていた。本当に看護が必要な程度の怪我をしていたのなら
そのような関係なんてありえないだろうし、何より医者の最初の診断だって怪しいものだ。あんなもの金さえ払えばどうとでもなる。
「そんなことないよ。どう聞いてきたかしらないけどさ、あの子本当に右手やっちゃってたからご飯食べさしたりしてさ・・・」
「いいよ、もうわかったから」
聞きたくなかった。
想像したくなかった。
沢木が甘えた感じで、母の愛情がこもった手料理を食べさせてもらっている姿を思い浮かべてしまったが、すぐに打ち消した。こんな光景を思い浮かべてしまう自分の想像力に本気でムカついた。
しかし、そんなことを考えていると母に悟られなくなかったから、出来る限り優しく答えた。言葉としては突き放しているようだが、私としては母を気遣う精一杯のことだった。
この場に及んで、私は何を取り繕うとしていたのだろうか。今思い返してみても、判らない。・・・いや、判らない振りをしていただけかもしれなかった。
「そ・・・、そう、分かってくれて嬉しいよ」
母の表情に少しだけだが安堵感が見えた。
「話し、それだけ? 」
「う、うん。それだけ・・・。えっと・・・、ゴメンね、邪魔したね」
ギクシャクしたまま会話は終わった。
母が背を向けドアへ向かった。
私はどうしても母の口から確認したかったことがあった。
沢木の言っていたあのこと・・・。
普段の母からは想像が出来ない、あの情景が脳裏をよぎっていた。
あれは本当なのか。
確かに状況証拠的なものはあるが、決定的ではなかった。
沢木が言っただけに過ぎないかもしれなかった。
心臓の動悸が激しくなってきた。
聞いちゃいけないのかもしれなかったが、一縷の望みにかけたかった。
母は・・・、私の母であって欲しかった。
私は母が部屋から出ようとしたときに、
「母さん」
と、母を呼び止めた。
「・・・なんだい? 」
「・・・あ、その」
モヤモヤしたままこの場を終えては後悔するような気がした。
が、言葉が上手く出てこなかった。
くそっ!
意を決して、思いを母に告げた。
「一度しか聞かない。そしてすぐに忘れる。約束する。だからこれだけは聞かせて。そして本当のことを言って」
「・・・なに? 」
母が緊張したのがわかった。
「沢木と・・・、したの?」
聞かずにはいられなかった。そして、どう聞いていいか判らなかったのが、まさかのド直球になってしまった。
言ってから、しまった、と思ったが時既に遅かった。
一瞬にして静寂した空気に包まれた。
すべての音が失われた。
無音。
無音。
時が止まったのかと思ったくらいだった。
母はしばらく考えていた。どう言おうか悩んでいたのだろう、微妙に表情が変わっていった。その心境の変化が表情から窺えた。
言おうか言うまいか相当葛藤していたのだろうが、母の中で決心がついたようだ。
暫くの沈黙のあと、母は重い口を開いた。
「・・・うん」
顔を真っ赤にして答えた母は、小さくて華奢で可愛くて綺麗で愛おしくて愛らしくて素敵で優しくて大好きで、でもすごくすごく遠くまで行ってしまって、二度と以前と同じように見ることができなくなって。
それがすごく悲しくて、悔しくて、居たたまれなくて、どうしようもなくて、泣きたくなって、涙が出そうになって。
あ、涙が・・・、って本当に泣いてしまっていた。
ああああああああああ。
あああああ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
こんな年になって泣きたくなかった。それを母に見られたくなかった。でも、止まらなかった。ヒックヒックとしゃっくりまで出てくる始末。
「で、でも、でも・・・」顔をくしゃくしゃにしながら、私は母に問いかけようとした。
「・・・」母はじっと私を見ていて、私の言葉を待った。
「・・・終わっ、たんだ、・・よね」聞こえたかどうかギリギリの声量だった。
母が近寄り、私をぎゅっと抱き締めた。
「終わったの、終わったんだよ、もう終わったの」
「終わったんだよね、信じていいんだよね。終わったんだよね」
「信じて、終わったの。もう終わったの。終わったんだよ」母も泣いていた。
私と母は、抱き合いながらわんわん泣いた。
目から涙、鼻から鼻水、口からは涎なのかなんなのかよく判らなかったが、とにかく顔中ぐちゃぐちゃにしながら、お互い強く抱き合った。
コンコンとノックの音がした。
父がドアのところに立っていて、
「お前たち、なんで泣いているんだ?」
と私達を不思議そうに見ていた。
ハッと、私たちは今おかれている状況を理解した。
顔を見合せ、母と私は笑った。
よく見ると、泣き顔が面白かったので、今度は声を出して笑った。
父もつられて笑っていた。
みんないい年して馬鹿みたいだけど、この時の私達家族はこの状況を喜んでいたと思う。
日常。
当たり前の日々。
今までのイレギュラー的な日々が、あくまでイレギュラーだったと思いたかった。
失ったのではなく、迷っただけ。
口には出さないが、みんなそう思ったからこそ、笑っていたのだと思う。
それから、何日か経っての休日。安眠
をむさぼっていたら母にたたき起こされた。
「・・・ぉはょぅ」
寝ぼけ眼を擦りながら、起き上がろうとした私に、
「馬鹿! 早くない! 天気がいいから布団を干すよ、ほら起きた起きた」
と母が言った。
蹴りだされるように布団からだされ、階下へ。
「あれ、朝飯は?」
「何時だと思っているんだい。もうすぐお昼だよ」
テーブルの上は、見事に何もなく整頓されていた。
テーブルばかりではなく、家中が以前のように綺麗に整えられていて、ベランダには彩り鮮やかな花が並んでいた。既に朝の水やりは終わったらしく、清々しい様相が、起き抜けの私には眩しく感じられた。
「そうだ。せっかく天気もいいし、みんなで公園にでも行こうよ。お弁当持ってさ」
「えー」
「えーじゃない。ほら、決まり。お父さんにそう言ってきて。そうときまればお弁当作らなきゃ」
突然の母の提案によって、みんなで近くの公園へ行くことになった。
近所にある公園は、この辺りではかなり大きなもので、子供用の遊具があり、芝生、ベンチ、池、噴水、遊歩道、と家族が休日を過ごすのにはもってこいのところだった。
既に何組かは敷物を敷いていて、そこへお弁当を広げたり寝そべっていたり、自由気ままに時を過ごしていた。
まあ、みんな同じようなことを考えるものだ。
「さあ、食べようかね」
お弁当は重箱で三段。中身は見た目も勿論、味も素晴らしいものだった。
行き交う人も振り返る、なんてオーバーかもしれないが、ちょっとないくらい豪勢なお弁当だった。
散歩中の老夫婦が近寄ってきて、
「美味しそうなお弁当だね。これみんなお姉さんが作られたのかい」
と聞いてきたので母が、
「よろしかったらご相伴くださいな、ほれ、あんたもう少しそっちへいきな。お父さんのとこ、ほら」
と私を追いやり、遠慮する老夫婦を座らせた。
父も旦那さんの方に、ま、おひとついかがですか、とお酒を差し出していた。
普段は寡黙だが人付き合いのいい父、時々心配をかけるけど、何より明るい太陽のような母、私は取り分け何もないけど、とにかく、笑顔の絶えない家族が戻ってきた。
色々あったけど、いつまでもこんな日が続くのかな、と母がさっき知り合ったばかりのお婆さんと、まるで昔からの知り合いのように仲良く話している姿を見ながら思った。
・・・と思ったのだが、そんな生活は続かず、本当の悲劇は一ヶ月後に訪れた。
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