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1:嗜虐の求婚 ⑥
投稿者:
司馬 名和人
この時つまり江戸時代の盲人は士農工商の身分制度においては公家、神官などとともにやや異質な存在であった。
当時の盲人・視覚障害者の成人男子の多くは当道座と呼ばれる組織に組み込まれていた。これはもともと琵琶法師ら、盲人の音曲等を生業とする者らの集まりであり、足利将軍家の一族と呼ばれた明石検校らの尽力で室町時代の初期に組織されたもので、その存在は戦国時代を過ぎて徳川の天下の下でもその存在を認められたのである。そして、江戸時代に入ると琵琶等の音曲など以外にもはり灸・あんま等の従事者もその組織に加えて発展していった。 そして、その当道座に所属する盲人たちにはやがて朝廷・公儀[幕府]から盲官と呼ばれる官位が与えられるようになったのである。 その官位は大きく分けると検校・別当・勾当・座頭の4完であり、更にその中で細かく分かれていて、合計で73にも分かれているのである。 そして、武井猪市はこの盲官である勾当の官位を持つ盲人である。 4階級の内、別当は事実上、検校の一部とみなされており、それに当道座に所属する盲人のほとんとが座頭以下の身分なのでこの武井猪市の勾当と呼ばれる位は事実上検校に次ぐ盲人の間では高い身分であった。 それに一応、朝廷から与えられる官位であるので盲人以外の世界でもそれなりの格式があり、兼業は将軍へのお目見えの資格があり京都いて全国の盲人を総括する惣検校、江戸にいて関東等、東国の盲人を総括する惣禄検校にでもなればそれこそ十万石級の大名並みの格式であり、いま猪市がなっている勾当の位もそれなりの格式のものである。 由香の目の前にいるこの武井猪市と呼ばれる盲人は話によるとかつては奥州のある小藩の代官を勤める武士の嫡男として生まれたが若くして病のために目を患い、やむなく嫡男の座を弟に譲り、15歳の時に江戸に出てきたと言うことである。 江戸に出てきた彼は花岡徳死と言う検校に弟子入りした。花岡検校はその頃、まだ40前でようやく勾当から検校に昇進したばかりであったが、既に学者として有名であった。特に国学の造詣が深く、古典・子文書に明るく、当時、幕府における文部大臣ともいえる林大学頭の知遇を受けて、その為に彼が主催する私塾であった国学講義所は幕府よりの援助を受けていた。 猪市はその花岡検校のもとで朱に鍼灸・あんまの修行を行い、花岡検校に気に入られるようになったのである。 それから18歳の頃に座頭の位の一つである衆分の位を得た。その頃、当道座に所属する盲人は一般的に座頭と呼ばれていたがこうしてこの猪市も衆分の位を得て初めて座頭としての一歩を記したそうである。 その後にたちまち花岡検校のもとで頭角を現して五年程前に三十歳そこそこの若さで勾当の位に昇進したそうである。 その武井猪市がにこやかな笑みを満面に浮かべていま由香の目の前に座っているのである。 由香に取ってはあまり深い親交があった人物では無いものの、多少は面識がある人物いまの女郎姿の自分を見られるのは猪市が盲人であってもつらいものであったので思わず顔を伏せるのである。 そのような由香の様子に気が着いているのか、いないのか、猪市は依然としてにこやかな表情で由香に次のようなことを言ったのである。 とにかく、お探し申しましたぞ。由香様、あなた様が急に姿を眩ませたので柴田家のご両親や弟御の修理殿らもそれこそ必死にあなたのお姿をお探ししたのですぞ」 由香はその猪市の言葉に思わず顔を上げた。由香にとっても両親、弟ら家族に心配おかけているだろうことが気がかりであった。 「それでそれがしもご両親らに頼まれましてあなたの行方をお探し申しましたところ、なんとかあなたがここにいることを突き止めまして、それにしても良かった。いまこの女将のお話では今日、初めて客を取らされることになっていたそうですね」 「そそれはそうですが」 由香はこの相手の真意が良く判らずただそう頷くしか無かった。 「それで女将、先ほども確認したがこの由香様の貞操はいまだ汚されてはいないのだな」 猪市は女将であるおもんの方にそう言うとおもんも「ははい、その通りでございます。つまり、勾当様が初めてのお客でございます。はい」と返事を返すのであった。 武井勾当はその時にほっとしたような表情で「それは良かった。間に合ったみたいだな」とそのように呟いてから改めて女将であるおもんの方を振り向いて言った。 「この由香様について話がある。ここに女衒の源蔵を連れてまいれ」 その勾当の言葉におもんはやや面食らった様子であったがやがて女衒の源蔵をその座敷に呼んだのである。 女衒の源蔵、女将のおもんを前に勾当はその二人の顔を見えない目でジロリと見ながら口を開いた。 「この由香殿を今日にでも身請けしたい。いかほど払えば良いのじゃ」 その勾当の言葉に由香は思わず「エエ」と言う表情をしたが、女衒の源蔵とおもんも驚いたのは言うまでもない。 「そそんないま今日、身請けなどと。この女ははようやく恭賀初顔見世ですので身請けなどととんでもない」 そのように源蔵が口を尖らせるとおもんも「そうですよ。勾当様、なにしろ、この人にはこれから大いに稼いでもらいたいのですから」ととんでもないと言うように言うのである。 「そなたら、そのようなことを申しても、本当に良いのかな」 武井勾当はやや低いが迫力がある声音で言うと女衒も、遊郭の女将も思わず押し黙るのである。 「そなたら、この由香様がどう言う身分のお方か、存じておるのか。このお方は賢くも北町奉行所の与力であられる柴田兵六殿のご息女でかつ、元ご公儀勘定衆で直参・旗本であられた関口隼人殿の奥方ぞ。そなたらがいつも借金のかたに女郎にしている貧乏町人・百姓の女どもとは違うのを本当に判っておるのか」 「そそれは勾当様」 源蔵がやや喘ぐように言うと猪市は源蔵らを睨みながら更に言葉を続けた。 「そなたらが、あくまでも意固地を張るなら、わたしは出るところにでても良いのじゃぞ。わたしにもいろいろと公儀のお役人にも知己もおるし、場合によってはわたしの師匠である花岡検校様を通じてもっと偉いご公儀のお方に話をつけることもできるが、そうしてほしいかな」 「そそんな、殺生な、勾当様。そそれだけはご勘弁を」 源蔵もおもんも顔を蒼くして畳に頭をつけるのである。 武井猪市はそのような二人に苦笑しながら「まあ、事を公にすれば、由香様や柴田の家名にもいろいろと差しさわりがあろう。だから、今回の件は、わたしがこの由香様を金を出して身請けすることによりかたをつけようと言うのじゃ。そなたらも不満はあろうがそれで納得せい」とやや諭すように言った。 その勾当の言葉に女衒の源蔵も女将のおもんも互いに顔を見合わせながら不承不承にともに頷くのである。 「どうやら、二人とも納得してくれたみたいだな。ふふ、穴結構、結構。それで改めて尋ねるが。この由香様の身請けの金額はいかほどかな」 その勾当の言葉におもんが躊躇いながら「そそれはおよそ、150両ほどです」 「なに、150両、それで間違いないのか?」 「ははい、そそれで間違いございません」 「わたしがいろいろと調べたところでは由香様の夫であられた関口殿が踏み倒した借財の総額は多く見積もってもせいぜい百両と聞いて居るが」 その勾当の言葉におもんは顔を伏せながらこう答えた。 「そのお、借金には利息がつきますし。それに女郎としての衣装代も加えておりますし」 「それにしても150両は法外だな。まあでも仕方がない。その150両はわたしがそっくり耳をそろえて払おう」 その勾当の言葉におもんと源蔵は互いに顔を見合わせてから、おもんが口を開いた。 「いあま、この場で150両を払うと」 「ああ、但し、その代わり、この由香様の証文全部をここに持ってくることと。今後、この由香様に一切、関わらないと言う年初をそれぞれ書いてもらおう」 「ははい、判りました」 そのようにおもんと源蔵は頷くのである。 「それではあちらの部屋に控えさせているわたしの手代をすぐにここに呼んで貰おうかな」 その勾当の言葉の通り、控えていた勾当の手代らしい20代半ばと思われる町人風体の男がその座敷に呼ばれた。 「おう、健吉か。そなた、ご苦労だが、この源蔵とについていってくれ」 勾当はそう言いながら源蔵の方を振り向きながら「由香様の証文はたぶん、恵比寿屋にでもあるのじゃろう」 その勾当の言葉に源蔵は苦笑して頷くのである。 「健吉。そなたは恵比寿屋でこの源蔵からこの由香様の証文を全部返して貰ってくれ」 「はい、勾当様」 そのように健吉と呼ばれたその手代は言葉にすくなに頷くのである。 それからその健吉と女衒の源蔵がともに出てゆくのを確認すると勾当はすぐに女将のおもんの方を振り返り「その間に、この由香様をここに入らした時のように武家の御内儀らしい身なりにお戻し申すのじゃ。いいな」 その勾当の言葉におもんは弾かれたように「ははい、判りました」と返事を返すのである。 それから約二刻[4時間]ほどののちに例の座敷には先穂との女郎姿とは打って変わって武家の内儀らしい身なりに戻った由香の姿が見られた。 それに既に女衒の源蔵が勾当の手代である健吉とともに戻っていて、その勾当の前には由香の証文が何通も置いてあった。 それらの証文を手に取りながら、武井猪市勾当は源蔵に確かめるように言った。 「源蔵、由香様に関する証文はこれで全部だな」 「へへい、その通りでごぜいます」 「うむ、判った。それでは健吉。150両を出してやりなさい」 勾当がそのように言うと手代の健吉は黙って頷くと一束25両の金包みを6個、傍らの風呂敷から取り出すとおもむろに源蔵の前に置いたのである。 「きっちり、150両、あります。お確かめを」 そのように健吉が静かに言うと源蔵はすぐにそれらの金包みを確かめると「確かに、150両を頂戴致しました」と返事を返すのである。 「うむ、それならば、約束通りに今後、そなたらは一切、この由香様に関わらないとの旨の念書を書いて貰おう」 その勾当の言葉に頷いた女衒の源蔵及び牡丹屋の女将であるおもんはともに頷いてそれらの念書を書いて武井勾当に差し出したのである。 このようにして由香は勾当・武井猪市によって女郎に身を落とす寸前で身請けされたのであるが、その間、由香はただ事の成り行きに呆然としているだけであった。 「それでは由香様、戻りましょう」 その武井勾当の言葉にまだ由香は夢を見ているようにまだポカンとしていて次のようなことを呟くのである。 「戻る、どこへです」 その由香を満面の笑みを浮かべながら勾当は諭すように言った。 「勿論、八丁堀の由香様の実家である。柴田家ですよ」 「えええ、そそれでは家に戻れるのですか?」 「はい、ご両親及び弟御も皆、首を長くして待っておりますよ」 それから由香は武井勾当に連れられて籠に載せられてようやく一ヶ月ぶりに八丁堀の柴田家に戻ったのである。 約一ヶ月ぶりに由香が戻ってきたことに由香の父である兵六、母の多江や弟の修理が喜んだのは言うまでもない。 ことに病勝ちであった兵六は猪市の手を取って「勾当殿、ありがとう、ありがとう」と涙を流さんばかりに何度も例を言うのであった。 由香の弟で14歳の見習い与力である修理も勾当の前に手を突きながら「勾当殿、例を言います。そそれがしが不甲斐ないばかりに」と言ったきりに嗚咽を漏らすのである。 そして修理は嗚咽しながら、姉が姿を眩ましたのちに手を尽くしてその行方を追ったがその行方を突き止めることが適わなかったとの話をするのである。 「姉上を載せた籠を調べましたがそれを探し当てることもできず。それとその直前に姉上を訪ねた公事師も行方を眩ましておりましたので」 修理はまだ少年らしい口ぶりでそのように言って悔しがるのであった。 「まああまあ修理殿、このように由香様も無事にもどられたのですからもう宜しいでしょう」 そのように武井勾当は修理を宥めたあとで由香の方を眺めながらしみじみと言った。 「とにかくく、間に合ってよかった。あと一日、立ったら。もう取り返しがつきませんでした」 その勾当の言葉に思わず由香は羞恥心を感じて顔を赤らめるのである。 それから武井猪市勾当は姿勢を改めて兵六、多江、修理そして由香の方を眺めながら口を開いた。 「この武井猪市。改めてお願い致したいことがございます」 それから更に言葉を続けて「恐れながら、この由香様をこの武井猪市の妻に申し受けたいのです」と言った。 その当の言葉にその場に居た者は皆、はっとしたように押し黙るのである。しかし、その中で由香は冷静に勾当の申し出を聞いていた。 これまでの経緯から、この勾当が自分にそのような申し出をするであろうことはある程度は予想できたのである。そして同時に、その申し出を拒むことは出来ないだろうことも感じていた。 由香ばかりでなく、父母や弟も皆、押し黙っている中で武井猪市の言葉が続いた。 「勿論、今回、手前が由香様を苦界からお救い申したこととわたくしが由香様を妻に申し受けたいとお願いすることは別のこととしてお考え下さい。この話が気に入らないのであれば、お断りください。わたくしとしても今回の件で渋々ご承諾していただくのは本位ではございませんので」 「いえ、そのお。接写はそのように別に考えては」 兵六が困惑したように妻で由香の母親である多江と顔を見合わせて複雑な表情をした。 武井勾当はそのような兵六と多江の表情を伺いながら更に言葉を続けた。 「わたくしは確かにしがない鍼灸とあんまを生業にしている一介の座頭に過ぎません。しかし、元は奥州の小藩の軽輩とは言え、一応は武家の家に生まれ者ですし、いまは賢くもご公儀を通じて京の朝廷から勾当の官位を頂いている身の上です。いずれは検校の位を頂こうと願っております。勿論、今後由香様を不自由な思いにはさせません」 その勾当の言葉に兵六もようやく腹を決めたらしく口を開いた。 「勾当殿のお申し出は良く判り申した。しかし、懸念することが一つござる」 「はあ、それは?」 「ふむ、勾当殿もご存知とは思うが、この由香は元勘定衆の直参・旗本であった関口隼人の妻であった。その関口殿があろうことか、吉原の遊女と一緒に逐電し、更に公金を横領したことが発覚して関口家がお取潰しになった」 「はい、それも伺っております」 「うむ、その後に由香はこの柴田の家に戻ったのであるが、つまりだな。正式に関口殿から離縁された訳ではない。まあ関口殿本人が出奔したのだから、事実上離縁したも同然と思えるが、いまここで貴殿が由香を妻に迎えるとなると、そのお煩く言ってくる向きが無ければ良いが」 「なるほど、そう言うことでございますか。ふむ、判り申した。こうしましょう」 武井勾当は兵六、多江、修理そして由香を見渡しながらこう言った。 「わたくしの方から、関東惣禄検校様から寺社奉行様を通じて、ご公儀の目付け衆の方に関口殿と由香様との婚姻は既に無効であるとの確認を取らせましょう。それと関口家の親類筋にはわたくしの方から改めてご挨拶をしてご了解を取らせて頂きます。そうすればどこからも文句は出ないでしょう」 その武井勾当の言葉に兵六は大きく頷いて「そうしていただけるのであれば、わたくしから言うことはございません。あとは娘が納得すれば勾当殿の申し出はお受けいたします」と言って頭を下げるのである。 その柴田兵六の言葉に満面の笑みを浮かべた勾当は改めて由香の方に向いて言った。 「由香様、御父上様がこのようにおっしゃっております。どうか、わたくしのこの思いを受け入れていただけますね」 「ははい」と由香はか細いがはっきりとした声音でそう答えるのであった。今更、由香もこの武井猪市勾当の求婚を拒むことは出来なかったのである。 それから数日後に武井猪市は師である検校・花岡徳市そして関東の盲人を統括する関東惣禄検校から寺社奉行さらに南町奉行を通じて柴田家に正式に由香を妻に迎えたいとの申し出を行い、柴田家も正式にそれを受諾したのである。 「ヘヘヘヘヘヘヘへ、とにかく、このほどは奥方様をお迎えになられうことに相成りまして誠に祝着でございます。勾当様」 恵比寿屋藤蔵がその赤ら顔をますます酒で赤くしながら杯を武井猪市勾当に向けながら言うと傍らの弟である女衒の源蔵も「誠におめでとうございます」と勾当におもねるように言うのであった。 由香と武井猪市との婚儀が正式に決まって間もない頃、深川の遊郭・牡丹屋の奥座敷には武井猪市勾当、恵比寿屋藤蔵、女衒の源蔵兄弟、牡丹屋の女将・おもん。公事師の権兵衛そして仕込み師・鬼八、女郎のおひるの姿があったのである。 「それにしても勾当様は本当にお人が悪い。勾当様があたしと源蔵さんを前に出る所に出ても本当にいいんだなと凄まれた時はお芝居と判っていてもぞっとしましたよ。お前さん」 牡丹屋の女将であるおもんは実は情夫である藤蔵に囁くように言うと藤蔵は酒で酔った顔をやや歪ませながら笑みを浮かべて「それはそれは、あっしでも震えていたかもしれませんね」とややおどけるように言うと武井勾当は面白くも無いと言った表情で「拉致も無い」と呟いた。 「しかし、勾当様。まだあっしには腑に落ちないのですがね」 公事師の権兵衛が首を傾げながら口を開いた。 勾当はその顔を権兵衛の方に向けて「うむ、それは」と声をかけると権兵衛は首をすくめながら言った。 「いえですね。結局のところは形の上ではあの奥方様の借財を勾当様が肩代わりしたことになったのですから、こんな手の込んだ芝居をしなくても、まあそれであっしも幾らかの小遣い稼ぎが出来ましたから良いのですが」 「ふん、ただそれだけでは余りにも芸が無いではないか。フフフフあの由香殿をあそこまで追い詰めたことこそが肝心なことじゃ」 その勾当の言葉にに源蔵が頷いて「なるほど、あの奥方様もさすがにもう女郎に身を落とすと諦めていましたからね。そこへ勾当様が救いの神として現れたのですから、ふふふふもうあの由香様も勾当様に従順な奥様になられることでしょう」と言った。 「それにな。なんと申してもあのおなごに真の意味での女の悦びに目覚めさせることができたことじゃ」 武井勾当はそう言いながらその余り見えな目先ほどから黙って杯を重ねている鬼八の方を眺めながら呟くのである。 その勾当の呟きに藤蔵、源蔵、権兵衛、おもんはともに口元に微笑を浮かべていた。そして源蔵がいかにもと言った調子で口を開くのである。 「ヘヘヘヘヘヘヘヘヘ、あの時はあっしも興奮しましたぜ。何しろ、兄貴とあっしであの奥様の前のアナと後ろのアナに張り方を突っ込んでヒイヒイといわせたのですから、それにフフフフフフフ」 源蔵はその時のことを思い出したのか誠に下卑た笑みを口元ににじませながら「フフフフ、あの時に勾当様があの座敷の隣室で聞き耳を立てていることをあっしも兄貴も知っておりやしたから、ますます興奮しましたよ」と言うのである。 「フムフム、いつもは上品に取り澄ましておったあのおなごがあのようなよがり声をあげたのであるからな」 その時のことを思い出したのか勾当はニヤリとしながら再び依然として先ほどから静かに杯を傾けている鬼八の方を振り返り「鬼八、おひる。こちらに」と言った。 「ささあ、鬼八さんにおひる。勾当様が及びだよ」とおもんが二人を促すと鬼八とおひるは黙って武井勾当の前に進み出た。 「フフフフフフフ、そなたらにはご苦労をかけた。鬼八、そなたには礼金を弾むし、おひる、そなたは約定通りに年季を半分にして、あと一年で開けるように女将の方には話しておく。それにそのあとの仕事の相談は藤蔵や源蔵とするがいい」 鬼八、おひるにそれぞれ杯を与えながら勾 当はそのように二人をにねぎらいの言葉をかけるのである。それに対して鬼八は黙って頭を下げ、おひるは「ありがとう存じます。勾当様」と返事を返すのである。 「それにしてもあの奥方様が勾当様との閨でどのような痴態を見せるのかねえ。フフフフ、こりゃあ楽しみだねえええ」 そのようにおもんが卑猥な笑みを浮かべて言うと藤蔵、源蔵、権兵衛もニタニタしてそのおもんの言葉を聞いていた。そして源蔵がいかにもと言うように武井勾当に言った。 「ヘヘヘヘヘヘヘヘ、何しろ、勾当様からはあのお方の貞操だけは汚してはならないと言われていましたからね。フフフフフフフ、それにしてもあの奥方年増ですが、とにかくいい女ぶりですからね。しかし、勾当様は失礼ながら目がご不自由ながら美女を見分ける才能はありますからなあ」 そのような源蔵の言葉を聞いた兄の藤蔵も「ヘヘヘヘヘヘ、それにしてもあの奥方様を毎晩床の中で可愛がることが出来るなんて本当に勾当様がお羨ましい」と情夫であるおもんの目を気にしながらも下卑た笑みを口元に浮かべるのである。 「ふん、そなたらの言う様に良いことばかりではないぞ。これで当分は検校の位を得るのは我慢することになろう」 その武井勾当の言葉に公事師の権兵衛がやや怪訝な表情で言った。 「ええ、それはどう言うことです。検校様へのご昇進が遅れるとは」 その権兵衛の言葉に源蔵も頷いて「その通りです。まあ確かにこんかいの件で勾当様は多少、金を使ったかも知れませんが、それも勾当様の身代[財産]を考えれば些細な額でしょう。もう既に検校の官位を得るために修める官金ぐらいは雑作もないでしょう」と首を傾げながら言った。 検校勾当等の盲官は細かく分けると73になると前述したが、建前上は琵琶、琴、三味線らの音曲やはり灸・あんまなどの医業で優れた技能を持ったと認められる者にそれぞれの官位が与えられることであったが、それであれば検校の位までたどり着くまでに気の遠くなる歳月がかかることになる。その為に公儀はそれら盲官を金を修めることにより得られるようにしたのである。 その為に盲人が納める金子を官金と呼ぶようになったのである。 座頭らは髪型であれば京都の惣検校がいる職屋敷に、関東・東国の者は江戸の惣禄屋敷を通じてやはり京都の職屋敷に官金を納めることにより、それぞれの官位を得られることになっていた。 その為に幕府は当道座に属する座頭らに特別に高利での金貸しを営むことを公に認めていた。それら盲人の金融業は座頭貸しと呼ばれたが、それらの者たちの貸した金の取立ては特に厳しいものと言われていた。 彼らは町人・百姓らだけでなく相手が旗本・御家人であろうとも容赦なく取り立てるので恐れられたのである。 武井猪市は15歳で江戸に出たことは前述した通りであるが、彼は師の花岡徳市検校のもとではり灸・あんま等の医業を学ぶようになり、17歳で花岡検校の推薦を得て当道座の医医学校とも言える杉山流鍼術稽古所[※注]で鍼灸医学を修めたのであるが、それと同時に座頭貸しの取立てにも手を染めるようになったのである。 ※注意 五大将軍のお抱え鍼灸師で初代の関東惣検校となった杉山和市の創始した杉山流の鍼灸術の学校として始まったもの 猪市は杉山流稽古所でも優秀な成績を収めたが、座頭貸しの取立てでもその才能を発揮したのである。前にも言ったように猪市が師事した検校・花岡徳市は灯台随一の国学者であり、その為にもともと座頭貸しにはさほど熱心では無かった。その為にやがて猪市は師匠の座頭貸しの為の金もその運用を任されるようになったのである。 その頃から花岡検校はその生涯の事業とも言える総書集成の編纂を始めるようになったのである。それは古代より編纂された歴史書・物語・日記等の子文書・古典の類を発掘して改めて編集・出版すると言う今日でいえば百貨時点を編纂するとも言える大事業であった。 花岡検校のその事業は長年の知己である林大学頭を通じて幕府の援助も受けてはいたが当然それだけでは足りずに花岡検校は多くの金を必要としていた。そのためにも座頭貸しの取立てで才能を発揮する猪市の存在は花岡検校にとっても大きいものであった。 その花岡検校の引きもあって猪市は二十歳前に既に座頭の最初の官位である衆分に任官し、更に三十歳そこそこで事実上検校に次ぐ勾当の官位を得ることができたのである。 それと同時に武井勾当自身も座頭貸しにより個人的にも多額の寝台・財産を蓄財することが出来たのである。 既に彼は師匠である花岡検校の座頭貸しの分も含めて一満了を越す金を動かしていると言われ、彼個人の財産も数千両は下らないと思われるのである。 当時、検校になるための官金は総額700両あ余りと言われたので、もう既に武井勾当はすぐにでも検校に十分になることが可能なのと思われていた。 恵比寿屋兄弟や公事師の権兵衛らは武井猪市が座頭貸しで蓄財をする過程で腐れ縁のような形で知り合った者たちであるのでにお勾当が既に明日にでも検校に昇進することが可能であることを十分に承知していた。 「確かにそうなんだがな」 武井猪市勾当はやや苦笑いしながら話始めた。 「由香殿や柴田家の両親らにはより以上に恩を着せるために由香殿を救うために検校の位に昇進する機会を逸したと言ってしまったのでな」 その勾当の言葉に女衒の源蔵はニヤリと微笑み「そうですか。それはそれはお気の毒に、しかし、すぐにと言う訳にはいかないでしょうが。いずれは早いうちに検校になられるのでしょう」と言うと武井勾当も頷いて言った。 「うむ、そうさな、吾が師の花岡徳市は38歳で検校に昇進した。わたしはそれよりも早く昇進するつもりであったが、フフフフ、その考えは止めて弟子であるわたしはそれよりも二年ばかり遠慮して丁度、40歳で検校になろうかの」 「ええ、そうなるとあと五年ほどですか」 「まあそうだ。まあまあせいぜいその五年間、大いに稼がして貰うことにするよ。だからそなたらもわたしの金儲けにこれまで以上に協力して貰いたいものだな」 武井猪市勾当はそのように呟きながらニヤニヤしていたが、それに対して藤蔵、源蔵の恵比寿屋兄弟も権兵衛もやはり同様ににんまりしながらともに頷くのであった。
2017/08/06 06:05:31(hgqpR.81)
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