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1:『無題』十八
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
手を繋いで、走ってきた道を歩いた。 マンションへと戻っていく。 あたしは、健ちゃんは家に帰らないほうがいいだろうと思った。あの男…健ちゃんのお父さんがいる家に帰るなんて。 でも、健ちゃんは帰りたいと言った。 「家に、帰るよ。お父さんのことは平気だから。俺が帰らないと、お母さんが心配するからさ。まぁ、もうすでに朝帰りだけどね」 そう言って笑った。 昔からそうだった。健ちゃんはお母さんを大切にしていた。 健ちゃんのお母さんは、儚げな、少女のような女性だった。 強い風が吹けば、折れてしまう花のような、繊細な女性だった。 「俺がいないと、お母さんはだめなんだよ。弱いひとだから。」 独りでは生きられない弱いひとだから、俺が支えてあげないとだめなんだ。 嫌な言い方をすれば、マザコンだ。でも、お母さんを大切にする健ちゃんを、あたしは羨んでいた。 そんな風に大切にして貰える健ちゃんのお母さんが、そんな風に母親を大切に出来る健ちゃんが、あたしには羨ましかった。 健ちゃんはあたしの手をひいて歩く。 雨はもう止んでいたけれど、どんよりと曇った灰色の空が、町を暗くしていた。 坂道を転がりはじめたあたしたちは、もう止まれなかった。 繋いだ手に、ぎゅっと力を込めた。 すると健ちゃんは振り返って、にっこりわらった。空いた右手であたしの髪を撫でた。 あたしは、健ちゃんを、愛してる。 愛してる、なんて陳腐な表現を使いたくはないけれど、他に気持ちを表す言葉が見付からなかった。 身体の内側の内側にある、柔らかくてまるいものが、温かく震えた。 マンションにたどり着いた。健ちゃんの手が、微かに脅えているような気がした。 廊下を歩いていると、健ちゃんのお母さんが駆け寄ってきた。 …なんだか、いつもと様子が違う。 いつもは優しそうな目は、充血して奇妙につり上がっていて、顔は、いつもにも増して白く、頬は、やつれたように痩けている。 駆け寄ってきた健ちゃんのお母さんは、その細くて小さな身体のどこからそんな大きな声が出るのか、という声量で、いきなり怒鳴りつけてきた。 「健!あなた、きちんと説明してちょうだい!あの人が…あの人が出ていったのよ!何があったの!何を言ったのよ!…答えなさい!」 健ちゃんのお母さんはヒステリーに喚く。 「…ごめんなさい、俺、もう、我慢できなくなって。だって…」 健ちゃんは弁解するように言う。 お母さんは、その健ちゃんの横面を張った。バチン、と痛そうな音が響いた。 「きちんと約束したでしょ?何度も言ったでしょ?お母さんだって、あなたがいるせいでたくさん苦労してきたし、たくさん我慢してきたの!…なのに、どうして、そんな自分勝手なことばかりするのよ?ねぇ、お母さんのために、我慢するって言ったじゃない、お母さんに幸せになって欲しいって言ったじゃない、ちゃんと、約束守ってよ!わがままばっかり、ずるいよ!こんな役立たず、生まなければよかった! 同じいなくなるなら、あなたがいなくなればいいのよ。私はあの人を探すから。あの人がいなくちゃ私はだめなの。あなたそれを知ってて、やったんでしょ? それで、自分は女と朝帰り?いいわねぇ。」 健ちゃんのお母さんはこれだけ一気に喚き、頭をバリバリと掻きむしりながら、カラカラと笑った。 でも見開いた目は全く笑ってない。 その目は何も見ていない。 灰色の空が映っているだけ。 …こんな役立たず、生まなければよかった… まがいものの幸せを守るために、今まで必死に耐えてきた健ちゃんの全てを、否定した。 魂を削られ、殺され、肉体を傷つけられ、奪われ、それでも我慢してきた健ちゃんの全てを否定した。 お母さんを支えようと、その幸せを守ろうと、必死に堪えてきた健ちゃんの全てを否定した。 本人を前にして、どうしてこんなことが言えるのだろう。 あたしは何度も食ってかかろうとしたけれど、健ちゃんがあたしの腕を押さえつけていた。 「夢ちゃん、俺、平気だからさ…」 健ちゃんのお母さんは、大きなかばんを抱えて、そのままフラフラと歩き出した。 宣言通り、探しに行くのだろう。 背を向けて去ってゆく。 一度だって健ちゃんのほうを振り返らなかった。 どうやら世界は、思っていたよりも子供に厳しいみたいだ。 あたしは再び、健ちゃんの手を握った。 健ちゃんは泣いていなかった。 だけれど、繋いだ手から、健ちゃんちゃんの、気を抜いたら泣き出してしまいそうな、苦しい悲しみが伝わってきた。 健ちゃんが前に言った通り、やっぱり神様なんていないのかもしれない。 とりあえず、健ちゃんをあたしの家に連れて行った。 ゴタゴタと散らかったあたしの部屋に入って、ベットの上に座らせた。ベットの上しか空いている所が無かった。 あたしのベットの上で、体育座りしている。 その肩は震えていた。 平気なはずがない。そんなはずがない。 あたしは健ちゃんの頭を胸に抱いた。 あたしたちは泣いてばかりだ。 健ちゃんが静かに言った。 「夢ちゃん、俺のこと、気持ち悪いって思うでしょ?」 あたしは、 「…なんでよ?そんなことないよ。どうして、いきなりそんなこと言うの?」 と言った。気付いてないフリをしようとした。 健ちゃんの手があたしの身体をなぞる。 「俺は、俺が気持ち悪いよ。夢ちゃんを愛してるのに、俺の身体は、汚い身体は、こんなに綺麗な夢ちゃんを愛さない。愛せない。」 「どうしてこうなったんだろう…。俺は、幸せを守りたかった。ずっと、それだけだったんだ。」 「本当に、それだけだったんだよ。」 健ちゃんは、泣いていた。震えていた。 あたしの胸で泣いているのは、小学三年生の健ちゃんだった。 本当は、あの頃からずっと、泣いていたのだろう。 あたしが気付いてあげられなかっただけだ。 健ちゃんをぎゅっと抱き締めた。 上手に生きられない、不器用な健ちゃんが、たまらなく悲しくて、哀れで、愛しかった。 こんなに傷だらけになるまで、気付いてあげられなかった。 しばらくして健ちゃんが顔を上げた。 「…夢ちゃん、俺、お腹空いちゃった。唐揚げ、食べたいな。作ってよ。」 と、唐突に言い出した。 あたしが、 「でも、急に言われても材料がないからできないよ。」 と言うのに、 「じゃあ、買ってきて。俺、夢ちゃんの唐揚げ、食べたいよ。お願い。」 と、譲らなかった。 健ちゃんがお願い事をするなんて珍しい。 仕方がないから、買いに行くことにした。 あたしが、 「じゃあ、買いに行って来るから、待ってて。」 と立ち上がると、 「うん、待ってる。」 と 言って、にこにこしている。 財布を持って、靴を履いて、玄関の扉を開けようとしたその時、追い掛けてきた健ちゃんが、あたしの肩を掴んだ。 肩を掴んで振り返させて、キスをした。 びっくりしたあたしは、目を閉じるのを忘れていた。 唇を放して、 「…いってらっしゃい」 と言った。笑って、手をふっていた。 「うん。」 とだけ言って、あたしは出掛けた。 健ちゃんがキスをしてくれたのは、これが二度目だった。 そして、健ちゃんがキスをしてくれたのは、これが最後だった。 あれが、最後だった。 もう止まらなかった。止まれなかった。 世界は思っていたよりも、ずっと、子供に厳しかった。 灰色に曇った空は、その時が来るのを、静かに、息をひそめて、待っていた。
2007/08/18 00:27:32(LeO8ZKgd)
投稿者:
たぁ
もぉーかなり続きが気になりますっ!!でも続き見たらやばぃかも…想像すると泣きそうになりました(:_;)健ちゃんのお母さんひどぃょー(´Д`)
07/08/18 18:31
(Eq4O9rFP)
投稿者:
幸
なかなかレスできずごめんなさいm(__)m
でも毎回、ちゃんと読ませてもらってます。 読む度に次回が待ち遠しくて…。 待ってますね。
07/08/18 23:06
(vKlY5z2b)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
たぁ さん、 幸 さん、書き込みありがとうございます。
ここからなんですよね。。 みなさん、だいたい先は読めてると思いますが。 あと少しなので、最後まで付き合って頂けたら、嬉しいです。 ありがとうございました。
07/08/19 00:30
(hb48SBCp)
投稿者:
ゆう
想いは伝わらないね
優しい人は自分を傷つける…
07/08/19 02:03
(cyLGp5XH)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
ゆう さん、ありがとうございます。
生きるのは、大変なことですね。 上手に生きられる人たちが羨ましいです。 また読みに来て下さいね。 ありがとうございました。
07/08/19 23:33
(hb48SBCp)
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