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1:『無題』十六(前編)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
暗い雲が、空を覆っている。 光など、この町のどこにも無かった。 天気予報では、今朝から明日の昼近くまでにかけて、関東では大荒れの天気になるだろう、と言っていた。 予報は的中した。 まだ昼間だというのに、町は太陽の光を失ってしまった。 ザーザーと、降り止まぬ雨。 全ての汚いモノを洗い流そうとするように、汚れた雨が降り続く。 こんな日は、家でグダグタしているのが一番だ。 しかし、日曜の昼間というのは、どうしてこんなにつまらないテレビ番組しかないのだろう。 仕方がないから、残念な企画ばかりの、残念な番組を、女としては、残念な体勢で見ていた。 すると ピンポーン、と呼び出しのチャイムが鳴った。 回覧板がまわってきたのだ。 いつもなら、ドアノブに引っ掛けてあるのに、わざわざ手渡しされたのは、中にお金が入ってるからだという。 何か、募金のようなものらしい。 何だかわからないものに、少しだけ、募金した。 恵まれない子供らは、どこかの遠い国にいるらしい。 次は、健ちゃんの家にまわさなければならない。お金が入っているから、手渡ししなければならない。 隣の家に回覧板を渡しに行く為に、着替えて、髪に櫛を通し、ドライヤーをかけ、マスカラを塗り、唇にリップグロスをのせた。 ただ回覧板を渡しに行く為だけに。それだけの為に。 少しでも、可愛く見せたかったから。 回覧板を抱えて、健ちゃんの家の呼び出しチャイムを押した。 無意識に、何度も、何度も前髪をなおしながら、人が出てくるのを待った。 待っていたけれど、中々出てこなかった。 留守なのだろうか。 もう一度、チャイムを押した。 すると、ようやく人が出てきた。 …健ちゃんの、お父さんだった。 そうか。今日は日曜日だから、お父さんがいるのか。 健ちゃんのお父さんは、かなり迷惑そうな表情をしている。 そして何故か、息が荒い。 そして何故か、シャツのボタンは外れていて、下はトランクスしか穿いていない。 縁無しの眼鏡の奥にある、彼の小さな、ギラギラと血走った目が、あたしの顔を、身体を、ジロジロと見る。 蛇みたいだ。 その根拠は、よく分からないが、あたしは、本能的に危険を感じた。 早く帰ったほうがいい。早く立ち去ったほうがいい。 「あ…あの、これ、回覧板です。お金、入ってるんで、お願いします。」 あたしは、そう言いながら、回覧板を差し出した。 健ちゃんのお父さんは受け取ろうと、手を伸ばしてきた。 彼はその手でギッと、強く掴んだ。 彼が掴んだのは、回覧板では無かった。 掴んだのは、あたしの手首だった。 ギッと、爪が手首に食い込む。 回覧板が落ちて、挟んであった茶封筒から、小銭が飛び出し、派手な音を立てて、散らばった。 あたしはびっくりして、もう声なんか一つも出なかった。 そのまま家の中へ、引きずり込まれた。 物凄い力だ。太刀打ちできない。 一番奥にある、リビングまで引きずられた。部屋の間取りは、ウチと全く一緒だ。 引きずられている途中、健ちゃんの部屋の前を通った。 が閉まっていて、中を見ることは出来なかった。だけれど、中に健ちゃんが、居るような気がして、たすけて、と叫ぼうとするのに、声が出なかった。 リビングのソファに押し倒され、服を剥がれた。 頭がボーっとする。 もう、どうにでもなれ。 大丈夫だ。心を閉じてしまえば、もう、悲しくない。 健ちゃんのお父さんが、ニヤニヤしながら言った。 「お前、“夢ちゃん”だろ?」 あたしは黙っていた。 健ちゃんのお父さんは続ける。 「健がいつも、お前の名前を呼んでるよ。“夢ちゃん、夢ちゃ~ん”て赤ん坊みたいに、ピーピー泣きながらな。あいつ、いつもそのまま出しちゃうんだよ」 そう言いながら、ケタケタと下品に笑っている。 頭が、カッと熱くなる。 …パンッ! 持ち合わせている全ての力を総動員して、彼の横っ面を張った。 どうしても、許せなかった。 あたしに殴られた健ちゃんのお父さんの目には、ますます狂気の色が浮かんだ。 薄暗い部屋の中で、彼の二つの目が、爛々と光る。 「…いい子にしてないと、殺しちゃうよ?男も女も関係ないんだからね」 などと呟きながら、左手で、あたしの首を、ぐっと押さえ付けた。 そして、右手の拳を振りあげ、あたしの顔に向かって、振りおろした。 何度も、何度も。 どのくらいの時間、殴られていたのか分からない。 三分か、十分か、一時間か。あるいはほんの数秒か。 苦しい。痛い。 意識が遠のく。 大丈夫。もう、苦しくない。 雨の音がする。あたしたちの青空は、どこへいったのだろう。 大丈夫。もう、痛くない。 「お父さん…どうしたんですか…?」 …健ちゃんの、声… 痛みを堪えて、首を動かすと、健ちゃんが自分の部屋から出てきて、こちらに向かって来るのが見えた。 何故か、健ちゃんも、トランクスしか穿いていない。 トランクスの前の方が、少し、突っ張っているように見えた。 あたしを見とめた瞬間、健ちゃんの大きくてクリクリとした可愛いらしい両の目が、さらに大きく見開かれた。 「…夢…ちゃん…?」 健ちゃんは、一瞬のうちに、この状況を理解したようだった。さすが健ちゃん。やはり、頭がいい。理解も早い。 そして、真っ青な顔で、脱兎の如く駆け出して、台所から包丁を引っ掴かんで、戻ってきた。 すばしこいなぁ。 「…夢ちゃんから、離れてください」 健ちゃんは、お父さんにギラリと光る、包丁の先を向けながら言う。 健ちゃんのお父さんは、凍りついている。 「…離れろって言ってんだよ!」 健ちゃんが怒鳴ると、お父さんは、ビクッと体をおののかせ、ヨタヨタと退いた。 「夢ちゃんに…」 健ちゃんは、怒りで震える手に、包丁を持ち、お父さんを追い詰めていく。 「…何をした…?」 「もう、たくさんだ…限界だ。…頼むから、頼むから、消えてくれよ…消えろよ!」 恐ろしい形相で、怒鳴る健ちゃん。こんな健ちゃんを、あたしは見たことが無かった。 お父さんも、そうなのだろう。口を、陸に上がった魚のようにパクパクさせて、完全にびびっている。 健ちゃんのお父さんは、後退りしながら、 「…健、た…助けてくれよ。許してくれよ。俺を、刺したら、お母さん、泣いちゃうぞ、いいのかよ?…仲直りしよう、な?」 と震える声で呟く。 …この人は、大人なんかじゃ、ない。わがままで、ずるくて、ねじまがった、子供だ。育ち過ぎた、汚い子供だ。 あたしには、そう見えた。 健ちゃんは、目に涙をたくさん溜めて、立ち尽くしていた。 雨が一段と強く振りはじめて、雨粒が、窓ガラスを叩いた。 窓硝子を伝う雨のせいで、もう、外は見えなかった。
2007/07/18 16:54:09(8Rz8aLQU)
投稿者:
ゆー
とても、シリアスな展開ですね。セツナクて、でも強い何かを感じました。
菊乃さんの作品は大好きです。これからも、楽しみに読ませていただきます。
07/07/18 22:38
(SfVGXYfd)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
ゆー さん、ありがとうございます。
今回は、少し長くなりそうだったので、前・後編 に分けてみました。 内容的に暗くて、重いので、読んでいて良い気分にはならないと思いますが。。 もし、また読んでいただけたら、嬉しいです。 ありがとうございました。
07/07/18 23:48
(8Rz8aLQU)
投稿者:
女神の鬼
いつも読んでる。
続きが気になる
07/07/19 21:30
(Sarpkir5)
投稿者:
菊乃
◆NAWph9Zy3c
女神の鬼 さん、ありがとうございます。
また続きを載せますので、よかったら読んでみてくださいね。 ありがとうございました。
07/07/19 23:24
(Sfi1ezTF)
投稿者:
ゆう
思い
想い 重い 泣き出してしまいそうだよ…
07/07/20 00:56
(GkjGMl/3)
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